聖夜の追憶




ペンを置き、放り出されたように乱雑に置かれた書類をかき集め、整理する。

昨日、処理できずに溜まっていた書類と、今朝追加された書類とを分けながら、壁に掛かった時計を見、時間を確認する。

正午になるまであと1時間といったところだろうか。そろそろ、彼もこの時間に玄関のベルを鳴らすだろう。

そう思いながら、書類に空欄を見つけ、サインをつけようとペンを探すが。

机の上に広げられた書類のどこかにまぎれてわからなくなってしまった。



「何をお探しですか?」

「いや、先ほどまでここにあった私のペンが……」

「ああ、こちらです?」

「すまないな」



彼の手が書類に隠されていたペンを発掘し、ヴィルヘルムの前に差し出される。

そのペンを持つ白い手と、黒地に2本の白い線が走る服の袖に見覚えがあり、顔を上げれば、幾度と見慣れた、しかし、今いるはずのない顔がそこにあった。



「お前、どこから入った?」

「どこから、と問われましても、玄関からに決まっているでしょう。鍵が開いておりましたので、貴方が開けておいてくれたのとばかり思っていましたが」



うかつにも、昨晩、玄関の戸締りを確認することを忘れていたらしい。

普段なら、彼の来訪を告げるベルで朝の仕事の終了時間を計ったものだが。



「それより、本日は兄様から頂いた遠国の紅茶をお持ちしました、貴方に入れてもらおうと思って」

「ほう、お前の兄も少しは気が利くのだな」

「本当はヴィルにはあげるなと兄様は言っていたのですけどね」

「……あいつめ。私は嫌われているな」

「兄様は嫉妬深い方ですから。僕はいつも兄様の機嫌を伺うので必死です」



そう会話を交わしながら、サインを確認した書類をまとめて机に並べ置く。

それは、朝の仕事が終了した事を告げる合図でもあった。



「さて、場所を移そう。お前の兄の目の届かぬうちに飲んでしまわないとな」











その事に気付いたのは、いつものように彼と紅茶を飲んだあと、部屋に戻るまでの道のりでだった。

幾度と通った事のあるはずなのに、書斎に戻れなくなっていた。

城は広く、初めて訪れた者は迷う事が多いが、しかし、ヴィルヘルムは毎日通っているはずなのに、その日見た景色は違っていた。

歩いている途中で足を止め、どこで道を間違えたのかと思い、辿った道を思い出そうとするが、考え事をしていたせいで、はっきりとは覚えていない。

とりあえず来た道を戻ろうと、歩いていたところ、見慣れた白い髪が廊下を横切った。

呼び止めて書斎までの道を共に行こうと思い、声をかけようとしたところで、ヴィルヘルムは止まってしまった。

彼の名が、とっさに思い出せなかった。

顔も、声も、服装も、覚えているのに、名前だけが出てこなかった。

思い出せずにいるうちに、彼はヴィルヘルムを置いて先へ行く。

呼び止める代わりに、魔術を放とうと、右手を構える、が、今度は簡単な魔術が思い出せなかった。

何度と使った、初歩的な魔術だ。それが思い出せない。

違う魔術を使おうと思っても同様だった。

その時、魔術が封じられている、いや、魔術に関する記憶を封じられている、と確信した。

いつもの書斎に戻れないのも、大切な部下の名前が思い出せないのも、そのせいなのだ。

いつの間に敵国の罠にかかったのだろう、と思いをめぐらせても、敵国といえば、先ほど紅茶を飲んだ彼しか心当たりがない。

まさか彼がそんな事をするはずは、と思うが、しかし、最近は彼しか接点がない。

……彼の兄の仕業だろうか。



「私は相当嫌われているらしいな……」



独り言を呟くと、それは部下の耳に届いたらしく、彼は振り向いて一瞬足を止めた。

丁度良い、と思い、ヴィルヘルムは部下の元へと急ぐ。



「嫌われているって、誰に?俺に?何、俺がシカトしちゃったから、みたいな?」

「お前じゃない、安心しろ」



こうやって会話を交わしてもいまだに名前が思い出せないとは。

相当に高度な術式の何かなのだろう。書斎に戻ったら、そのような魔術の本を探さねば、と思いを巡らせながら部下と書斎への道を歩く。



だが、新たに違う異変に気付いたのは書斎に到着し、いつもの椅子に腰掛けた後の事だった。



「あ、ヴィル、そういえば一つだけサインがない書類があったんだけど、」

「そんな馬鹿な事があるわけないだろう」

「あったから言ってるんだよ!……あった、これだ。はいよろしくー」



部下から差し出された書類には、確かに空欄があった。

ため息をつきながら、ペンを手にし、サインをしようと思った瞬間だった。



「……どうした?」



手が止まる。文字が書けなかった。

一瞬、魔術の単語に関係するせいで、書けないのだと思った。

しかし、仮にも自分の名前が書けない、と言うことがあるのだろうか。



「この書類、後でも良いか。用事を思い出した」

「あ?別にいいけど……」



ペンを置き、部下に動揺を悟られないように急ぎ書斎を出る。

気を落ち着かせるために、少し歩き、窓の外の景色を見やる。



「名前が……」



部下の名前、そして自分の名前。

いくら魔術に関する記憶を封じる術式でも、こんな事がありえるのだろうか。

しかし、たとえありえたとしても、相当な術師でないと無理だろう。しかも、自分に気付かれないようにとなると、さらに難易度は上がる。

それを、自分を嫌う彼の兄が行なうことが果たして可能だろうか。



「あいつには無理だ……術師でもないくせに、こんな高度な術が使えるはずがないっ……」



だとしたら。

一つの可能性が浮かび上がる。

それは信じたくない真実だった。

しかし、それを確信付ける要素は、十分にある。

何せ、その彼の名前でさえ思い出せないのだから。



「私の記憶が……消えている……」











少しでも仕事に支障が出ないように、と、その日からメモを取る癖をつけ始めた。

ただ、部下に知られてしまっては大げさに騒ぐだろう、と考慮し、メモの事は隠していた。

しかし、そのメモの存在でさえも忘れてしまうことがある。

そんな時の為に、メモに術をかけておいた。一定時間以上経つと光を放つようにした。

それでも気付かないときは、電流を流す術もかけておいた。

まさか、電流にお世話になる事はないだろう、と思っていたが、意外にも電流の術が発動する確立が高い。

電流が流れるたびにメモを思い出し、忘れてしまっていた自分を叱咤する。

そして、メモを開き、最初のページに書かれている、自分の記憶を確かめるための項目を読み、記憶を試す。

自分の名前、部下の名前、よく使う魔術の単語5つ……。

当たり前の事だが、一度は忘れていた記憶だ。だが、メモを取るようになってからはそれを忘れる事は少なくなった。

それでもやはり、完全には補えない部分もあった。それは仕事で使う専門用語だったり、普段なにげに使っている道具の名前だったりした。

その度に軽い物忘れを装い、その場に居合わせた部下や彼に尋ね、頭の中で繰り返すことで記憶を作る。そして、忘れないうちにメモを取る、の繰り返しだった。



「最近、貴方は物忘れが目立ちますね」



そう、彼に言われて、一瞬、激しい物忘れの事を悟られたのかと思い、焦るが、あくまで平静を装い、何事もないかのように振舞う。



「そうか?仕事も忙しいし……頭が回らないんだろうな」

「睡眠は足りていますか?疲れが溜まってしまっているのでは」

「ああ、気をつけてはいるつもりだが……」

「では、僕の名前を言えますか?」



一瞬、心臓が跳ねる。まさか、そんな質問が出るとは思わなかった。

こんな時に限って、思い出せなかった。

自分の記憶力を恨む。



「……何故そんな事を聞くんだ」

「最近、貴方が僕の名前を呼んでくださらないので。物忘れも酷いみたいですし、僕の名前まで忘れていたら、と思いまして」



彼は微笑みながら、答えを待っている。

だが、その答えを出す事ができずにいた。

何とか回避しようと、話を転換させるための話題を探すが。

目の前には庭園、そして鮮やかに咲き誇る花達。

赤や黄色の花を見、続けて白い花を見たとき、その名を思い出せなかった。

そして、またいつもの物忘れを装い、彼に問う。



「そういえば最近、物の名前を尋ねる事が増えたな……そうだ、あの白い花の名は何だったか、覚えていないか?」



すると、彼は驚いたような表情をし、それからすぐに暗い表情に変わった。

その反応を見て、問うべき質問を誤った事を知る。



「そんな事まで忘れてしまったのですか……?」

「そんな事、とは……」

「あの花は、ヴィルが一番に大切にしていた花じゃないですか」



自分が一番に大切にしていた花。

そんな事でさえ、思い出せなくなっていた。

大切にしていた記憶さえ、残っていない。

そういえば、赤い花も、黄色い花も、自分がどういった経路で育てていたのかを忘れてしまった。

そもそも、何故自分は花などを育てていたのだろう。

そして、大事にしていたのに、何故忘れてしまったのだろう。



「ヴィルヘルム、もう一度問います。僕の名前は?」



自分の名前を呼ばれたのに、一瞬、他人事のように感じてしまった。

そうだ、自分の名前は覚えている。しかし、彼の名前は?

彼は、自分とはどういう関係だった?何故、彼は城に住んでいないのに毎日会うんだ?

そもそも、何故彼はここにいる?彼は自分にとって何なのだ?



彼は、誰だ?



彼に関する記憶が、いつの間にか無くなっていた。

ただ、自分と親しくしている感情だけは覚えている。

彼を悲しませたくないという想いが募っているのも感じる。

涙が溢れていた。ただ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

彼はきっと、自分を想っていたのだ。

それを自分は裏切ってしまった。何もかも、覚えていないのだ。

ただ、残っているのは、彼に対する感情だけ。

彼に好意を持っている、特別な感情が、一つだけ。

だが、それが残っているだけで一体何ができようか。それ以外の事は全て覚えていないというのに。

当然すぎて、メモを取るのも忘れているくらい、彼の存在は大きかったのに。



「……すまない、思い出せない」

「ただの物忘れじゃないのですね」



哀しそうに彼が目を伏せた時、胸が疼くように痛み出したのを感じた。

それがどのような感情から起こるのかはわからなかったが、彼が悲しそうにしていると、自分も悲しくなってしまう。

これ以上、激しい物忘れの事を隠す事はできなかった。



「記憶が……消えていくんだ……どんどん、手のひらから砂が零れるように消えていく……忘れてはいけないことまで、忘れてしまうほどに……」

「それはいつから?この事は誰かに話しましたか?」

「……それも、覚えていない」



物忘れ、いや、記憶障害は既に深刻なまでに進行していた。

もはや、成す術がなかった。これからも、大事な事を少しずつ失っていくのだろう。

彼の事でさえも、ここまで思い出せずにいるのだ。

やがて、自分が誰であるかでさえも、分からなくなってしまうのであろう。



「……私は……怖い……」



自分が自分を失ってしまう時を考えるのが怖かった。

もはや何もかもを失ってしまったときの自分。空っぽになった自分は、何を想い、何を感じ、何の為に生きるのだろう。

大切なものを全て失った自分は、どう生きて、どう死んでいくのだろう。



「失いたくないのに……忘れたくないのに……っ」



既に何を失ったかでさえ分からなくなるほどに、沢山の記憶を失った。これ以上失うことなんて考えられなかった。

それでも記憶は零れていくのだ。とどまる事を知らずに。



「……なあ、頼む。お前は私との記憶があるだろう?私にはお前と関わった記憶も残されていない。だから、もう一度私に教えて欲しい。これ以上、忘れたくない、忘れてはいけ

ないのに……!」



涙が、止まらなかった。

溢れ出る涙をぬぐいきれずに、うつむいて顔を隠すように目頭を押さえた。

すると、暖かく、包まれるように抱かれた感触を感じる。

暖かな腕の中は、気分を落ち着かせるのに最高の場所だった。

彼に触れられているというだけで、こんなにも心が満たされた気分になる。



「ではもう一度覚えて。僕の名は極卒。貴方はヴィルヘルム。僕は貴方が好きで、貴方も僕が好きだった」



少し涙が引いて顔を上げると、まるで物語を語って聞かせるように、彼は話し始めた。

頬に流れた涙を指ですくい、気持ちを落ち着かせるように、涙の跡を撫でながら。



「僕たちはいつも、この庭園の花を眺めながら、貴方の入れた紅茶を飲みました。最近はそれがなくなったのでどうしたかと思いましたが」



彼との日課である紅茶の時間でさえも、忘れていたのだと思い知らされる。

失われていく記憶に対する無力感を、改めて感じさせられた。



「ですが僕と貴方は敵同士で、本当は逢う事さえ許されるはずがありませんでした。僕も貴方もその事を感じていて、好きになってはいけないのだと、思いました」



目の前にいるのは敵だった。本来ならば殺し合わねばならない相手を、なぜ彼は愛してしまったのだろう。

彼は自分を好きになってはいけなかった。好きにならなかったら、こんなにも辛い現実を、こんなにも苦しい思いをせずに済んだはずだったのに。



「何故だ……」



疑問がふと口にでた。だが彼はただ笑って当たり前のように答えた。



「貴方が好きだからです。諦めなければならない、と思った頃には、すでに好意を持ちすぎていました。僕は諦める事ができなかった。ですから、たとえ貴方がいつか僕の事を全て忘れてしまっても、僕は諦めません。貴方が忘れてしまうたびに、僕は貴方の記憶となり、もう一度思い出させてあげましょう」



その言葉が、心にじん、と染み渡っていった。

心が温かくなり……嬉しかった。

彼を好きで良かった。彼に対する好意の感情が残っていて良かった。

その言葉は忘れたくないと願った。

最後まで残る記憶が、彼のその言葉だったらいいのに。

だから、目を閉じて、といわれても、拒否する事なんて考えもしなかった。

重ねられた唇も、その感触も、暖かさも、覚えておこうと思った。

この幸せな気分も、忘れてしまわないように、記憶しようと思った。



「もう一度、想い出を作っていきましょう。忘れても忘れきれないほど、たくさんの想い出を」







彼は、次の日から城に住み始めた。

毎朝彼はヴィルヘルムの記憶力を試し、忘れている事があれば丁寧に説明した。

彼の存在は、ヴィルヘルムの記憶障害の進行を遅らせた。

記憶はなくすどころか、増えていく気すらした。

彼はふとした瞬間に、記憶を試した。それは、会話の途中だったり、廊下を歩いている途中だったり、食事の合間だったりした。

そのおかげで記憶は以前より失われなくなったが、それでも不完全だった。だが、彼とこうして記憶を試しながら会話するのが楽しくて、このまま記憶が戻らなくてもいいかもしれない、とも考えてしまった。



「そういえば、以前、ヴィルは僕に1度だけピアノを弾いてくれました」



そのような想い出話しさえ覚えていないヴィルヘルムにとって、彼の記憶はありがたかった。自分がどういう人間で、彼はどう感じていたかを知ることができる上に、無くした記憶も埋めることができる。



「忙しい合間に僕が無理を言ったんです。貴方は嫌そうな顔をしましたが、でも素敵な曲を聴かせてくれました」



嬉しそうに笑いながら彼は語る。彼の話は全て新鮮で、でもそれは自分の記憶でもあった事を考えると少し不思議な気分だった。

何も覚えていない自分に彼は何でも語って聴かせてくれた。それがたとえ些細な出来事でも、どうでもいいような事でさえも、教えてくれた。



「お前は何でも知っているんだな」

「ヴィルが教えてくれたことでもあるんですよ。だから、今度は僕がヴィルに教えるのです」



そう彼は言うものの、ヴィルヘルムは彼の手を煩わせていることに少なからず申し訳ない気持ちがあった。

彼は今、自国を捨てて、敵国に住んでいる。

いつまでも、記憶がない自分の元へいていいわけがないはずだ。

それに、ヴィルヘルムの記憶が消えているという事実は、敵国にとって都合のいいはずだ。

なのに、彼は国にも戻らず、国に連絡も取らず、ヴィルヘルムと記憶障害と向き合ってくれている。

いっそ全てを忘れたフリをして彼を遠ざける事も考えたが、それだとあまりにも辛すぎた。

だから、少しでも記憶を増やし、全てを思い出せるまで、この記憶障害と向き合おうと思っていたのに。

記憶を増やそうとすると、今度は記憶を留める力がなくなっていった。

長時間、記憶することが出来ない。

同じ事を二度も三度も聞いたりする事が増え、同じ場所でよく迷うようになり。

朝になれば、彼の名でさえ思い出せなくなっていた。

それでも彼は記憶を与え続けてくれた。失うたびに与え、記憶を試す回数も増え。

しかし、あがけばあがくほど、記憶を留めることのできる時間は短くなってゆく。

次第に、一人では行動できないほどに、記憶力は衰えた。



「さて、この廊下、ここから右と左に分かれていますが……寝室への道はどちらでしょう?」

「左、か?」

「右です。では貴方の名前は?」

「ヴィルヘルムだ」

「僕の名前は?」

「極卒」

「ちゃんと覚えていますね。では右に曲がって」



広すぎる城内は、もはやヴィルヘルムにとって迷路そのものだった。

移動をするときは、必ず彼が側にいて、彼が道を問いながら進む。

その移動の間も、彼は想い出を語って聞かせてくれていた。

しかし、彼との想い出も、過去の自分の記憶であったはずなのに、もはや他人事だったように聞こえてしまう。

そう思い始めた時、ヴィルヘルムは、近いうちに、自分の記憶が全て無くなる予感がしていた。

自分に未来予知の能力があるわけではないが、何故かそう感じていた。

不安だった。そんな事は信じたくなかった。今だって、彼は記憶を埋めるために語ってくれている。

まだ、その時は遠い未来であるはずだ、と、不安を消すために自分に思い込ませた。



「2度目の曲がり角です。ここは、直進と右折、どちらでしたか?」

「……直進」

「覚えていたのです?」

「いや」

「そうですか」



忘れている事を、自然な事であるかのように、彼は受け入れている。

本当は、記憶を持つ彼の方が、何かを感じているはずだった。

だが、それを顔にも口にも出さないのは、ヴィルヘルムを不安にさせないためだろう。

本当に不安なのは、彼のはずなのに。



「はい着きました。明日の朝またお迎えに来ますね」

「すまない」

「いいえ。では、おやすみなさい」



寝室の前で、彼と別れる。

本当は、この不幸な予感を打ち明けようかと悩んでいた。

だがやはり、彼の不安を思うとそれはできなかった。

自分の記憶力が戻れば問題ないのだ。記憶することさえ、できれば。

寝室に入った後、ヴィルヘルムは、何か思い出せるきっかけがないかと、部屋中を見渡した。

片隅に積み上げられた本、その隣のいくつもの本棚。

真っ暗な空が覗く窓。その窓の横にある、机の上の照明が淡い光を放っている。

机は、いつも綺麗に整理されていた。最後に触ったのはいつだったのかはもう覚えていない。

机の引き出しを探れば何かあるだろうかと思い、机に近づく。

最初にあけた、一番上の引き出しの中に、何もない空間に一つだけそれはあった。

一つの茶色の封書。宛名には、『記憶を失くした私へ』とある。

その字には見覚えがあった。自分の字だ。記憶を失くす前の自分が、記憶の在る内に書いたのだろう。

これを読めば、少しは思い出せるかもしれない。

封を切って、中の用紙を取り出す。

丁寧に綴られた文字達が、姿を現した。

胸が高鳴る。これで、記憶を取り戻せたら。



―――記憶を失くした私へ。



これを読んでいると言う事は、私は既にほとんどの記憶を失っているのだろう。

この手紙を書いたことでさえ、覚えていないに違いない。

だが、この手紙を読んで、記憶を失くす前の私が何を思い、何を願っているのか、知ってほしい。

これが私の最後のわがままで、最後の記憶だろうから。



……記憶を失くしても、彼への想いは残っているのだろうか。

私は、今、その事が気がかりでならない。

記憶を失くした私を、彼はどう受け入れたのだろう。

愛を失くしてしまった私は、どう生きるのだろう。

彼は、私に、愛する事を教えてくれた人だった。

暗殺者である私は、何も思わず、何も感じず、人を殺し。人を殺すことで、生活している。

それが当たり前で、人を殺す事に何も疑問に思わなかった。

だが、いつだったか、敵国の拠点への侵入の命が下った時、私は暗殺者である事を後悔した。

よりにもよって、敵である彼に、恐ろしくも好意を抱いたのだ。

暗殺者であるのに、殺す事をためらった。ためらった時点で、私は裏切り者として処分される運命にあったのに。

幸い、私は組織でも数少ない術者であったがゆえ、罰を与えられただけで難を逃れた。

だが、私の心からは彼が離れなかった。彼は敵だ。いつかは殺さねばならない。辛い思いをするだけだから、忘れよう。そう思っても、何故だか忘れることができなかった。

忘れようと思えば思うほど、彼は私の目の前に現れ、私の決意を揺らがせる。

だが、彼と過ごした日々は、楽しくて。愛し、愛される事がこんなにも幸せで。

たとえ裏切り者でもいい。この幸せな日々が続けばいい、と願っていた。

……だが、それももう叶わないようだ。既に今、私は彼に関する記憶を少しずつ思い出せなくなっている。

記憶は無くなろうとも、これだけは、最後まで片隅に残っていて欲しい。それが叶わないなら、もう一度、記憶して欲しい。





私、ヴィルヘルムは、記憶をたとえ失くしていたとしても、彼―――極卒を愛している。





だが、もし私が私自身をもわからなくなり、私という人格を失ったのであれば、その時は私の最後の願いを受け入れて欲しい。



私が―――





そこから先は涙がにじんでしまって読むことができなかった。

だが、記憶を失う前の自分が何を願っていたのかは伝わった。

そして彼にも、伝えねばならない事ができた。

しかし、果たしてそれを明日まで覚えている事ができるだろうか?

さっきだって、寝室までの道のりを彼に送ってもらったのに。



今しかない。今伝えたい。



そう思った時に、ヴィルヘルムは手紙を片手に握り締めたまま、寝室を飛び出していた。

彼の使っている部屋はどこかわからない。また一人、迷うだけかもしれなかった。



「極卒!」



彼の名を呼び、彼を探す。

まだ近くにいるかもしれない。そう思いながら、暗い城内を彼の姿を求めて走り続けた。

だがやはり、道を覚えているはずもなく、迷ってしまって。

ついに、足は走る事も歩く事も止めてしまった。



「何故だ……」



記憶が無い事への無力感。

道を覚える事が出来てさえいれば、伝えることができたのに。

記憶さえ失くさなければ、伝えられたのに。



「極卒……」



何もできず、記憶の無い朝を迎えるのは嫌だった。

明日になれば、この気持ちでさえ消えてしまっているのに。



「ヴィルヘルム」



暗闇から声がした。自分の名を呼ぶ声。それは確かに、彼の声だと、記憶が言っていた。

暗い廊下に目を凝らしていると、後ろから抱きしめられる感触があった。

彼の鼓動が激しく鳴っているのが聞こえてきた。少し息を切らしている。



「何故部屋から出てきたのです?道なんて覚えていないでしょうに」

「お前に言いたい事がある。私が忘れない内に、伝えたい」



彼が腕に力をこめたのを感じた。強く抱きしめられ、少し痛い。だが、心は温かさで満たされていた。



「……部屋に戻りましょう」

「極卒、今、聞いてほしい」

「明日またうかがいます」

「嫌だ、明日には忘れてしまうのに……!」

「忘れないように覚えておけば良いのです。できるでしょう?」



耳元で囁かれる彼の声は、いつにもまして辛そうだった。

彼は今、どのような表情をしてそう言っているのだろう。

それを見る事は叶わなかった。

腕の力が緩んでいく。彼の手がヴィルヘルムの腕を掴み、寝室へと導くために歩き出す。

その間、彼は一度もヴィルヘルムと目を合わそうとはしなかった。

いつも想い出を語るときは、必ず視線をこちらに向けていたのに。

とうとう言い出せないまま、寝室へとたどり着いてしまった。

そして、また、明日迎えにきます、と言い残し、去ろうとする。



「……行くな」

「もう寝なくては」

「行くな。朝まで側にいろ」

「……貴方はずるい」



ずっと目線を避けていた彼は、その時初めて自分の感情をヴィルヘルムに見せたかもしれなかった。

目頭を赤くしたまま、彼はヴィルヘルムと共に寝室に入る。

暖かい光が漏れる小さな照明が一つ灯るだけの部屋。今日、最後の記憶を作る場所。

ヴィルヘルムが寝台に横になった時、彼はその時におやすみと言葉を残して去る事もできた。だが、彼はそれをしなかった。

一人では広かった寝台も、二人で使えば多少狭く感じる。だが、そんな事は気にならなかった。

向かい合うようにして身体の向きを変えると、彼は先程の表情を消していて、微笑みながら、ヴィルヘルムの髪を撫でた。

彼が触れてくれているだけで幸せだった。明日もまた記憶が消えていたとしても、彼は目覚めればそこに居て、そしてまた自分に記憶を与てくれる。

あの言葉を今伝えるべきか悩むが、それを察した彼はヴィルヘルムの頬に触れながら言う。



「今言わないでくださいね。絶対、明日まで覚えていてください」



それが彼の最後の賭けなのだろうと思った。

だから、その賭けに何としても勝たなければと思った。



「わかった。明日、伝えよう」



おやすみ、と彼は額に口付けをくれる。それは勝利のおまじないのように、ヴィルヘルムの心から不安を除き去った。

目を閉じて、伝える言葉を何度も頭の中で繰り返した。

明日まで、覚えているために。











「おはようございます。よく眠れました?」



目を開けば、彼がそう声を掛けてきた。

まだ気だるい身体を起こし、焦点の定まらない目をこする。



「……昨日、貴方が伝えようとした事、覚えていますか?」



それは少し不安げな声だった。だが、その不安を拭い去る自信を持っていた。

心の中に、一つだけ残っている言葉。これを伝えようと、ずっと思っていたのだ。



「『私が全てを失くしたら、その時はお前の手で私を殺して欲しい』」



これが最後の願いだった。だが、まだ伝え足りない事があるような気がしていた。

思い出せない。とても、大事な事だったのに。



「……わかりました」



彼は悲しそうだった。だが、確かに覚えている事はできた。

彼にとっても、それは良いことであったはずだったのに。



「ところで、僕の名前は覚えていますか?」



何度も見た顔、だったはずだ。自分にとっても、特別な人で。

だが、思い出すことはできなかった。

返答を迷っていると、彼は違う質問をした。



「では、貴方の名前は?」

「私は……」



名前。自分の名前。

答える事ができなかった。

名前とは、何だっただろう。自分は、何者なのだろう。

疑問だけが、頭の中で巡っていた。



「覚えていないのですね」

「……」

「朝食の用意をしてきます。しばらく待っていてくださいね」



そう言って彼は部屋を出た。

一人残された部屋は、広すぎた。

しん、と冷えた空気が、肌にも、心にも刺すようで、哀しかった。

何も、わからなかった。自分の名前さえも。

手がかりを探そうと、辺りを探す。

丁度、頭の位置に、それはあった。

しわが走る紙。綺麗に綴られた文字が並んでいる。

そうだ、これを読めば。

しかし、そこに書かれている文字を、解読することができない。

文字である事は、理解できる。だが、それを言葉として読むことができなかった。

読み方を忘れた。自分の名前も、彼の名前も忘れた。

自分は、全てを失ったのだと、その時気付いた。











目の前に用意された食事。湯気が立つそれに、なかなか手をつけられずにいた。

食器の横に用意された、棒の先が球状にくぼんだものを使って、彼は食事を始めている。

彼を真似ながら食事をしようと思うが、だがそれでもどうしたらいいかわからない。

見かねた彼が隣に座り、食事を口まで運んでくれる。

口を開けて、と催促されて、それに従えば、口の中に暖かく、甘い味が広がった。

彼は、食事を飲み込むまで見届けると、頭をなでてくれた。そして、次の一口を用意し、また口元まで運んでくれる。

何故彼がそこまでしてくれるのか、わからなかった。

自分は何も覚えていないし、彼の事も何もわからない。

何もかも失った自分を、それでも優しくしてくれる彼がわからない。

何も無い自分に、もう優しくしないでいいのに。



「……何故貴方が泣くのです?」



急に涙をこぼしはじめた自分を、彼は気分を落ち着かせるようになでてくれる。

その優しく触れてくる彼の手が辛いのに。

暖かくて美味しい食事。もっと味わっていたかったのに、のどを通ったのはほんのわずかだった。



その日は室内にいてもとても冷える日だった。

すっかり身体が冷えてしまっていたので、日が昇っている間はほとんど暖炉の前で彼と語って過ごした。とはいっても、記憶の無い自分に語る事などなく、彼の話に相づちを打っ

ているだけだったが。

彼は記憶の無い自分に、それでも記憶を語ってくれていた。

その想い出話を聞くたび、胸の奥に懐かしい感情がくすぐるような感じはしていた。

だけど、やはり、思い出せない。それはとても大事で、忘れてはいけないような事だったはずなのに。

そんな時に決まって涙がでた。あまりにも無力であることを思い知らされて、悔しくて。



「今日の貴方は泣いてばかりですね」



微笑みながら彼は言う。本当に辛いのは、本当に泣きたいのは、記憶のある彼のはずなのに。

自分に記憶も何も残っていないのなら、これ以上失い続けるのなら、いっそ死にたかった。

これからも失い続けて、ずっと彼の助けを借りるわけにはいかない。

それに、今朝、彼に伝えたはずだ。『全てを失ったら殺して欲しい』と。

想い出話の合間に、彼に、何故自分を殺さないのかと問うと、彼は少し困ったように笑いながら、今日は特別な日だから、と答えた。

笑っていたけど、どこか辛そうで、哀しそうで。聞いてはいけなかった、と後悔した。

今日が特別な日ならば、彼は今日が終わるまで待ち続ける気かもしれない。

明日、本当に全てを失ったら。その時は……彼も自分も、苦しみから解放されるだろう。

辛そうに笑う彼を見ているのが耐え切れなかった。今日が早く終わればいいと、強く願った。



「雪……」



日が暮れてまもなくして、窓の外をちらほらと雪が舞い始めた。

優しく落ちる粉雪。窓に触れても、外の空気の冷たさしか伝わってこないというのに、それでも手を伸ばしたくなった。窓の開け方がわからなかったので、それは叶わなかった。

闇に舞うその姿が綺麗だった。記憶を失くす前の自分も、この雪を見て同じ事を思ったのだろうか。

後ろから優しく彼に抱きつかれるまで、時間の経過に気付かずにいた。

また冷えてしまっていた身体に、彼の体温は心地よかった。



「1年前の今日の貴方も、僕が話しかけるまでずっと窓から雪を眺めていました。記憶を失くしていても、貴方は貴方ですね」



その記憶を語った時の彼は少し嬉しそうだった。

1年前の事なんて、何も覚えていないが、それでも自分までもが嬉しくなった。

しばらく二人で雪を眺めていた。互いに何も語らなかったが、静かで、心地よい空間だった。



「ヴィルヘルム」



その声が何故か身体の奥にまで響いていった。心に暖かい感情が広がっていくのを感じる。

振り返ると、彼は優しく微笑んでいて、でも哀しみが宿るその瞳から目が離せなかった。

そんな眼をしないで欲しかった。そんな眼をさせてしまっているのは、自分だと言うのに。

彼の手が、頬に触れてくる。少し撫でていたかと思うと、両手で包み込むように顔を上向かせてくれて。

これが最後なのだと、悟っていた。

自ら瞳を閉じて、優しく触れるような接吻を受け入れる。

甘くて、切なくて、苦しくて。口付けながら、涙が出た。

その涙を、頬を包む手でぬぐいながら、彼は口づけを求める。



ありがとう。



心の中で、そう思いながら口付けを交わし続けた。



私を好きになってくれてありがとう。

最後に、こんな幸せな気持ちを与えてくれてありがとう。

貴方を好きでいてよかった。その感情が、全てを失った今でも残ってくれていてよかった。

明日全てが終わるとしても、私は心残りなく死ねるだろう。

ずっと辛い思いをさせてすまなかった。だけど、嬉しかった。

ありがとう。……さようなら。



ゆっくりと、唇は離れていった。

瞼を開けば、彼の辛そうな顔がそこにあった。

この思いが伝わってしまったのかはわからない。だけど、彼はわかってしまったのかもしれない。

彼はそこで初めて、涙をこぼした。

一筋だけ頬を流れ行く涙を、ぬぐおうともせず、彼は泣いていた。

彼が泣いているところなんて、初めて見た。

記憶を失くした、と伝えた時も、彼は泣くどころか、事態を受け止め、それでも笑ってくれていたのに。

彼の名前さえ思い出せない時も、微笑んで、また記憶を与えてくれたのに。



「……極卒、何故お前が泣くんだ」



泣くなんて、お前らしくない。そう叱咤しようと思ってふと我に帰る。

今、自分は彼の名を呼んだ。

今朝には自分の名でさえ思い出せなかったのに、何故彼の名を今更言える?

彼がまた教えてくれたから?違う、覚えていたんだ。

彼が泣くところなんて、今まで1度も見た事がなかった。出会ってからも、記憶を失くしてからも、今までずっと。

まさか、と思い、それを試すために、ヴィルヘルムは窓を開いた。

冷たい風と共に、粉雪が肌に触れる。涙の跡が冷えた。

夜空に向かって手を伸ばす。落ちてくる雪に向かって、狙いを定め、放つ。

それは闇の空に、一つ、燃え上がる。



「……極卒、見たか」

「ヴィルヘルム、何を……」



彼が困惑している間もなく、ヴィルヘルムは窓から外へと飛び出していた。

飛行の術を唱え、ゆっくりと着地すると、寒いのも構わず、駆け出していた。

自分に向かって落ちてくる雪という雪すべてを、炎で包んだ。

それでも身が冷えれば、身体の回りに炎を帯状に放ち、暖めた。

やがて、魔力消耗後の特有の頭痛が起き始めると、やっと足を止めて、気分を落ち着かせるために、空を見上げた。

その星空に舞う粉雪が好きだった。

一年に一度、この日になると、いつも時を忘れてそれを眺めていた。



覚えている。



この雪も、それを燃やした炎の術も、彼の名も、自分の名も。

彼との記憶も、想い出も、全部覚えている。



「ヴィルヘルム!」



名を呼ぶ、彼の声が遠くに聞こえた。その声の方向へ目をやると、城から離れたところに来てしまった事を知る。

彼の姿は少し遠くて、小さかった。丁度いい。実戦で試すついでに少し驚かせてやろうと、彼に向かって衝撃波を放つ。彼はそれを、軍服の裾の下に隠されていた銃で相殺した。

彼の銃の弾丸は確か、魔術を打ち消す効果のある特殊弾だったはずだ。簡単な魔術ならそれで消し去る事ができる。

遊び心で、彼の頭上の雪を全て炎に変えた。炎は彼に向かって流星のように落ちる。

しかし彼は銃を使わず、炎を見切って上手くかわしていく。彼がそれをかわしている間、ヴィルヘルムは炎の術を新たに唱えながら、彼との間合いを詰めていった。

やがて彼の顔が確認できるほど距離が縮まると、ヴィルヘルムは瞬時にさきほどと同じ衝撃波を放った。彼はそれをまた銃で打ち消すと、すぐに銃をしまった。

ヴィルヘルムが第二波を放とうと右手をかざすと、彼は素早く接近し、魔術の軌道をそらすためにヴィルヘルムの右腕をつかんでバランスを崩させた。

体術を心得てないヴィルヘルムは彼のされるがままに、雪の上にあおむけに倒れこんでしまった。そのとき右手の魔力をおさめて敗北を認める。



「……やはりしばらく動いてないと鈍るな」

「鈍っている時の貴方でないと僕は勝てませんよ」



雪の上に倒れたまま、笑いながら言い訳をする。

背には冷たい雪の感触があったが、軽く運動をして火照っていた身体に丁度いい。

すぐに起き上がるという選択肢もあったはずだが、雪の上に倒れるヴィルヘルムを見つめている彼と、彼の背後に降る粉雪をもっと見ていたかった。

それに、彼もヴィルヘルムを離そうとはしなかった。倒れこんだまま、二人はしばらくそうしていた。



「ヴィルヘルム……貴方は本当に……」



しばらくの沈黙が流れたあと、少し不安げに彼は尋ねてきた。

さきほどの戦闘で証拠を見せてやったのに、それでもそんな事を聞いてくる彼が少しおかしくて、小さく笑う。



「何だ極卒、私を疑っているのか。ならば、語って聞かせよう」











1年前の今日。世の中は聖夜を祝う日。

そのような祭りごとに興味がないヴィルヘルムは、そんな日でも夜遅くまで仕事を続けていた。

部下に休みをとらせ、一人書斎で行われる作業。やっと終わりを告げた頃には、日付が変わろうとしていた。



「雪か……」



ふと窓を見やれば、ささめ降る粉雪。

座り続けてなまった体をほぐすついでに、窓に近づいてそれを眺める。

闇に光る星を背に降る雪は、光の雫のようにきらめいて見えた。

聖夜にきらめく雪。

悪くない、とヴィルヘルムは思った。

ずっと眺めていたかった。休みの無い自分への、せめてもの褒美として。

聖夜を祝う資格のない自分への、ささやかな慰めとして。



「……雪ばかり眺めないで下さい」



突然の声に驚く。雪を眺める事に集中しすぎて、仕事が終わる時間を見計らって入って来た彼にも気付かずにいた。

彼を無視してしまったことで、彼は少しふてくされているようだ。



「いつも貴方は僕以外のことばかり考えて……僕には貴方しかいないというのに」

「雪を眺めるくらい別にいいだろう」

「雪だけならまだしも、貴方がジャックの事を考えているのではと思うと、僕はたまらなく嫌な気分になるのです……」



そう言って彼は悲しげに目を伏せる。

彼がいつものように冗談を言っていると思っていたヴィルヘルムは、軽い気持ちで返そうとした返事を心の奥にしまった。

何か言いたげな彼の様子を見、言葉を待つ。



「……ねえヴィルヘルム。僕は貴方が好きです。僕には貴方しかいないのに、貴方がジャックの事を想うのは嫌なのです」

彼はそこでいったん言葉を切った。沈黙が長く感じられる。

そして、意を決したように彼は続けた。



「僕は、貴方からの答えが欲しい。」



答えは出ていた。だがそれを口に出すのがためらわれた。

だから、何か別の話題を振ってかわそうと想ったが、彼の真剣さを思うとそれはできなかった。



「……考える時間をくれ」



本当は、こちらから伝えようと思っていた。なのに、先に問われてしまったのでは、調子が狂う。

想いを伝える事が、ヴィルヘルムにとってどれだけ難しくて、どれだけ恥をしのぶか、彼は知らないのだ。

こういうことに関しては、計算した上で、気持ちの準備をしてからでないと、気が済まない。

彼を困らせてしまう結果になるが、今の返事で彼が納得できないのはわかっている。

ならば、理由を作るしかない。



「来年の今日まで、待って欲しい」

「1年も待たねばならないのですか?僕は今すぐにでも貴方の気持ちが聞きたいのに」

「気持ちの整理というものも必要だろう。……だが期日までに必ず返事をすると約束しよう」

「……本当に?約束ですよ?」

「ああ」



これで、来年の楽しみができた、とヴィルヘルムは思った。

暗殺者である自分に聖夜を祝う事はできないが、聖夜を楽しむくらいなら、許されるだろう。

その日が、自分にとっても特別な日になればいいと願った。

そんな事を考えているうちに、少し気恥ずかしくなってきたヴィルヘルムは、彼から目線をそらすため、わざと雪を眺めるふりをし、彼に背を向けた。

顔が少し火照っているのを感じる。窓にそんな自分の姿を見るのが嫌だったので、不自然に見えないように窓を開けて、冷えた空気で頬をさました。

身体も冷えてしまうが、そんな事を気にしていられなかった。動揺が伝わってしまうよりはるかにましだ。

だが、背に彼の体温を感じ、腕を回された時、鼓動が一段と跳ねて、激しく高鳴る心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思った。



「……極卒、離れろ」

「身体が冷えてしまうので嫌です」



叱りつけようか、と振り向くと、彼は何故だか先程より嬉しそうに微笑んでいる。

彼には、わかっていたのだ。ヴィルヘルムが動揺しているとき、すぐに顔が赤く染まってしまう事を。

そのため、それを隠そうと背を向ける癖を。



「貴方はわかりやすくて助かります」

「っ!黙れ!」



余計に恥ずかしくなって、顔も合わせられなかった。だが、彼の腕の中では逃げる事も叶わない。

彼がまたヴィルヘルムの羞恥心をあおることをするのではないかと気が気でならなかった。

だが、彼はそんなヴィルヘルムの心境を知ってか知らずか、何もしてこようとしなかった。

やっと警戒心を解いた時、彼は長かった沈黙の中で言葉を紡いだ。



「……返事、待っていますからね」

「……約束、だからな」



再び沈黙に包まれてしまったが、今は何故だかそれが心地よかった。

来年の今日、どんな返事を返そうか。

二人で美しく降る粉雪を眺めながら、ヴィルヘルムはそう考えていた。

来年もまた、今この時と同じようにこの粉雪を眺めたかった。

もちろん、彼も一緒に。











記憶があるという事は、なんとすばらしい事なのだろう。

過去に想いをはせるだけで、あの時感じたように、幸せな気分まで心に蘇る。

彼に語って聞かせながら、懐かしい感情と、胸をくすぐるような甘い気持ちが募っていた。

一年前の約束を今、果たさなければ。



「返事を……待たせてすまなかった」



過去を語り終えて、ヴィルヘルムは一息つく。

段々と高鳴る鼓動を落ち着かせるように、深呼吸をして。



「私は、お前だけを愛している」



その言葉は意外と素直に紡ぐことができた。

ずっと、想っていたことだ。ずっと、伝えたいと思っていた。

たとえ記憶を失くしていても、それでも最後まで残っていた記憶だった。



「っ……!あたりまえです、僕以外を愛したら許しませんから」

「……嫉妬深いのはお前も兄にそっくりだな」



泣きそうな彼をなだめるために冗談を言ったが、それでも彼の涙を塞き止める事はできなかった。

彼の涙がヴィルヘルムの頬に落ちる。彼の頬に触れ、彼の涙をぬぐってあげながら、ヴィルヘルムは次の言葉を紡ぐ。

彼に、もう一つ、伝えなければならない事があった。



「極卒……私はお前に謝らねばならない」

「何故です?記憶障害のことなら僕は……」



違う、と首を振り、彼の言葉を制止する。



「……私はお前を信じる事をせず、今日が最後だと、勝手に決め付けてしまっていた。明日は本当に何もかも失って、お前に殺される時を待つだけだ、と」



そこで言葉を区切る。少しの沈黙が流れるが、その間も粉雪はしんしんと降り続けていた。



「だがお前は違った。お前は今日、私が私の名でさえ思い出せないのに、それでも記憶を教えてくれた。お前は諦めなかった。……私は、諦めてしまっていたんだ。想い出の無い私は、それでも、私が死ぬ事でお前が救われると思っていた。記憶が戻るなんて信じずに」



最後の最後まで、彼は諦めなかった。

だが自分は彼を信じず、自分の記憶も信じなかった。

彼と積み上げた想い出を忘れたまま、自分は彼の前から姿を消そうとした。

そんな事、彼が許すはずないとわかっているのに。彼は、諦めないと言ってくれていたのに。



「勝手に死のうとした私を許して欲しい。だが記憶が戻ってからこうも思う。お前が諦めず記憶を語ってくれるのが嬉しかった。お前を愛してよかった、と」



その言葉を紡ぎだすと、彼はヴィルヘルムの胸の上に崩れ落ちて声を抑えながら泣いた。

彼のその姿を見ると、思わずこちらまで涙ぐんでしまう。

彼が泣くのを見るのは辛かった。彼にはいつまでも笑顔を見せて欲しかった。

記憶が無い間、彼はずっとそうしてくれていたから。



「今日のお前は泣いてばかりだ」

「……貴方こそ」



涙をこらえた声で彼は言う。

ヴィルヘルムは彼の顔を両手で包み込むようにして上げさせて、涙に濡れた頬をぬぐった。

彼はすまなさそうに笑う。

やはり笑った顔が好きだ。彼に泣き顔なんて似合わない。

そしてヴィルヘルムは雪に倒れていた身体を起こし、自らその唇を重ねていった。

彼は一瞬驚いていたものの、背に手を回し、抱き寄せるようにして求めてくれる。



重ねられた唇は、甘くて、切なくて……幸せだった。









聖夜を祝福する粉雪は星にきらめき、二人を包んでいる。

この幸せが永遠であるように、と聖夜に祈った。



星空に舞う粉雪と、聖夜の追憶。

もう二度と、その記憶を手放してしまわないように。

もう二度と、積み重ねた想い出を、見失わないように。







―――愛している。今までも、これからも、ずっと。

















―――――


あとがき


携帯サイトにて、クリスマスフリーでした。
大好評で嬉しかったです!あざーす!

かなりの長文になっていますが^^;
書いている時はノリノリで楽しかったのに、今読み返してみると恥ずかしいです…!←



08年02月






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